成長哲学とは

はじめまして、延堂溝壑(えんどう こうがく)です。成長哲学に関心をお寄せいただきありがとうございます。私はこれまでの人生を通じて“成長を積み重ねる”ことの大切さを強く感じてきました。

成長哲学というとちょっと分かりにくい表現ですが、これは一言で簡単に表現すると、「自己成長について真剣に考える」ということです。もう少し付け足しさせてもらえるなら、「自己成長について真剣に考え、自己成長に責任を持ち、自分なりの成長の道筋や心構えをつくっていく」ということです。

人は生まれてから死ぬまで成長の連続です。成長は子供の頃だけの話ではありません。むしろ大人になってからの方が、成長の機会や成長の必要性を感じるとき、というのは多いのではないでしょうか。子供の頃の成長はとても大切ですが、大人になってからの成長も、子供の頃と同じかそれ以上に大切です。

 

成功よりも、成長を

世間には成功哲学という言葉はあります。こちらは聞き慣れている人も多いかと思います。書店の自己啓発コーナーに行くとその手の本がたくさん置いてあります。
ベストセラーになっている本もあります。それらの本には富を得るための原理原則、人生を豊かにするための考え方、幸せになるためのルール、などが書かれており、それらの法則は実際に地位や名声や富を得た人たちの思考パターンや行動パターンをもとに構築されています。

成功哲学と成長哲学、言葉は似ていますが意味はまったく違います。成功哲学では、「人生で大切なことは、成功すること」という前提のもとに、話が進んでいきます。そして、成功哲学における成功とは、「社会的地位、名声、富」といった財産を多く手に入れることであり、焦点はおおむね物質的な豊かさにあるようです。目標を達成するのも、人としての成長も、富を手に入れるためである、というのが一般的な成功哲学です。

しかし成長哲学では、「人生で大切なことは、人として成長を積み重ねていくこと」という考え方を前提としています。

『成功して不幸になる人びと』(ジョン・オニール著 ダイヤモンド社)というタイトルの本があります。世間も羨むような成功を手にした人たちが、成功を手にしたことで逆に不幸になってしまったり、大きな問題を抱えたりする、といったケースは珍しくありません。宝クジを当てた人のほとんどが不幸になってしまうのも、同じような原理です。

成功して不幸になるのは、なにも個人レベルの話だけではありません。たとえば日本という一国で見ても、同じようなことが言えるのではないでしょうか。日本は1945年の敗戦から立ち上がり、何もない焼け野原から復興し、高度成長期を経て、物質的に豊かになりました。ですが豊かになったはずの日本では、自殺者数の増加や、これまでの常識では考えられなかったような犯罪が発生しています。経済的な成功を手に入れたはずの日本人ですが、人としての成長が経済成長に追いついていないのかもしれません。

成功や成功哲学を否定したいわけではありません。ただ、人生には、世間で言われているような成功よりも、もっと大切なものがあるのではないか。その一つが、人として成長を積み重ねていくこと、なのではないでしょうか。

成長か成功か、ではない

成長哲学の話をしていて、よく訊かれることに「人生において、成功は大切ではないのか?」という質問があります。成長哲学では、『成功よりも、成長を』と言っていますが、なにも成功が大切ではないと言っているわけではありません。はっきりと断言しますが、成功は大切です。ただ、成長哲学における成功の定義は、もしかすると世間一般に言われる成功と少し解釈が違っているかもしれません。

上記の「成長哲学とは」にもありますが一般的な成功とは、地位や名声や富といった豊かさを手に入れること、というように解釈されているような気がします。そして、それをできるだけ楽に、できるだけ早く、できるだけ多く、手に入れるのがよいことだと・・・。成長哲学にとっての成功はそのような意味ではなく、「力を尽して世の中のために事を成す」という意味です。

武士の時代、戦などで手柄を立てた者には、その見返りとして手柄に見合う褒美が与えられていました。この手柄とは、周囲も認める立派な功績のことでした。

今の世間一般の成功は、できるだけ早く楽をして(立派な手柄を立てること、努力することはせず)褒美だけ欲しい、と言っているようにも聞こえます。

成功という同じ言葉でも、「できるだけ早く、楽に、多く、地位や名声や富を手に入れること」と「力を尽して世の中のために事を成すこと」とでは、ずいぶんと意味が違います。まるで真逆のようにも感じます。

自己の「人としての成長を大切にする」という成長哲学の観点から見ると、できるだけ早く、楽に、多く、地位や名声や富を手に入れることは、あまり自己の成長のためにならないと言えるのではないでしょうか。

もし同じ事を成し、結果的に同じくらいの見返りを手にするのであれば、早く楽をするよりも、手間暇をかけて尽力し、悩み、遠回りするほうが自己成長のためになるのではないでしょうか。出光興産創業者である出光佐三さんは、

『一つの目的を達成するのに非常に楽な道と非常に苦しい道とがあるとする。
苦しい道をとっても、楽な道をとっても目的は達せられるが、どちらを選ぶかといえば我われは敢えて難路を選ぶ』

という言葉を残しておられます。普通に考えると、悩んだり遠回りをすることは、できれば避けて通りたいことです。誰しも人生がうまくいくように願っている。

しかし、成長哲学の観点で見ると、悩んだり遠回りすることは、自分の成長にとって大切なことであり、避けて通るものではないことがわかります。 できるだけ労せずに、成功の向こう側にあるものだけを手に入れよう、とする行為には人としての成長があまりないからです。その典型的な例がギャンブルです。

ギャンブルに限らず、物事と向き合うときの心の姿勢が、できるだけ労せずに富を手に入れたい、というものであればそれは仕事や人生においてもそれはギャンブルと同じようなことが言えるのではないでしょうか。

成長哲学という考えにおいては、成功と成長は、どちらかを選ぶという二者択一のモノではありません。その二つはつながり互いに影響を与え合うものです。自己を磨き、成長を続け、尽力する。その先に功が成り、さらなる自己の成長につながる。ただ単に、見返りだけを手にすることが成功ではないのです。

成長は約束されている

人は自己の心の内にある定義に則した努力をして、さらにはそれに則した結果を得るはずです。

しかし、人が手にする結果は必ずしもその人の努力に則しているとは限りません。人生では、ときに自己の努力を上回るような結果を得てしまう、ということが起こります。典型的な例は、ビギナーズラックです。もちろん反対のことも起こります。頑張ったのに努力が報われなかった、というときです。

自分の手にした結果に対して、あまり一喜一憂するのはよろしくないことです。たとえば仕事などで頑張って努力をして、思った以上の成績を手にすることができたとします。それは一見すると、よい結果に見えるかもしれません。しかし、その結果を手にしたことで、自己の心に傲りが生まれたり、自分の実力を過大に錯覚してしまったりすると、はたしてそれは自分の人生にとって本当によい結果だったと言えるでしょうか。

反対に、頑張って努力をしたが、まったく努力が報われなかった場合でも、その経験がもとで、その後いっそうの努力を重ね、次の挑戦においてよりよい結果に至り、自己の成長にもつながったとしたら、努力が報われなかったことは単純に悪い結果だったと言えるでしょうか。

結果には、100パーセントよい結果はありませんし、100パーセント悪い結果もありません。どんなにいいと思える結果の中にも悪いことの種は潜んでいますし、そして、どんなに悪いと思える結果の中にもよいことの種は潜んでいます。

よい結果を手にしても、心が未熟であれば、いずれその結果の中に潜む悪い種が芽吹き、自身に災難として降りかかってきます。悪い結果を手にしたときでも、心が未熟なままだと、その結果の中にあるよい種が芽吹くことはありません。

人はつい、よい結果だけを手にしたいと思いがちですが、そもそも結果とは必ずしも努力に対して約束されているものではないのです。結果に対して自分にできることは、結果に至るまでの道のりで、どれだけ努力を尽くせるか、ということです。

1つの言葉を紹介します。田坂広志さんの言葉です。田坂さんは、『未来を拓く君たちへ』(くもん出版)という本の中で、次のように言っています。

「成功」に向けて全身全霊での努力を続けるとき、
我々は、一人の人間として、大きく「成長」できる。
我々は、人間として、素晴らしい「成長」を遂げることができる。
だから、君に、伝えておきたい。
人生において、「成功」は約束されていない。
しかし、
人生において、「成長」は約束されている。

(『未来を拓く君たちへ』田坂広志 くもん出版 48~49ページより)

私たちは、結果を出すことの大切さを知っています。結果を出さねばならないときもあるかもしれません。しかし、その本質を見失って結果主義に走っていくと、ときに大変なことが起こります。

最近のニュースを見ていると、結果のために不正を行う企業や人は後を絶ちません。そのような企業や人が、取り返しのつかない事件や事故を引き起こし、自分の人生も他人の人生も台無しにすることさえあります。成長なき結果の果てにあるのはその結果に潜む悪い種の発芽です。

私は、結果に対してあまり一喜一憂するのはよろしくない、とお伝えしました。得られる結果に執着するのではなく、結果に至るまでの道のりで、自分にできることを精一杯やることを大切にしてほしい。そして、得られる結果の良し悪し以上に、人としての成長を大切にしてほしいのです。

何のための成長か

成長とは、あくまで手段です。手段とは目的を追求し続けるために必要な要素のことです。たとえば人の生きる目的を、「自分の人生最後の瞬間に『いい人生を過ごせたな。幸せな人生だったな』と心から思えること」だとします。成長とは、そんな人生の目的を追求するための重要な要素です。

でも一つ言えることは、「成長のために、成長してもいい」ということです。成長はあくまで目的を追求するための手段ですが、その手段である成長を人生の目的にする時期があってもいいのではないでしょうか。

人間が他の生き物と違い、なぜここまで発展を遂げたのか、それは成長意欲の高さにあるのではないかと私は考えます。人間は他の生き物と違い、工夫が好きで、知識欲求の高い生き物でした。よく仕事のやりがいをテーマにしたアンケートに、「困難な仕事をやり遂げたとき」「目標を達成したとき」「仕事を通して自分の成長を実感したとき」「お客様に喜ばれたとき」「上司にほめられたとき」といった項目が上位に出てきます。「給料が上がった」という項目は、アンケートではそれらの項目よりもずっと下のほうです。上位にある項目には、おおむね自己成長の実感が関わっているのがわかるでしょうか。

仕事のやりがいを感じるとは、イコール生きがいを感じているということです。「この仕事をやっていて本当によかった!」は「生きていてよかった!」なのです。成功して不幸になる人は大勢いますが、成長して不幸になる人はいません。成長の実感が得られなくて苦しむ人はいますが、成長を実感することが苦痛な人はいないのです。成長することは、実は人間の生きる目的そのものでもあるのです。

誰かのために、何かのために、という自分なりの成長の目的を持つことはとてもいいことです。あるに越したことはない。でも、たとえそのような目的を持っていなかったとしても、成長を追求し、楽しんでもいいのです。

(※このページに掲載している写真は、2016年5月に延堂溝壑が撮影した山口県岩国市の樹齢300年を超える「クスノキ巨樹群」です。)